ドクタープロフィール|福井クリニック
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 院長・内科医
 福井俊彦

 僕は小学6年まで兵庫県の山あいにある猪名川町で育ちました。多田源氏ゆかりの地で、近くの銀山は豊臣秀吉の財宝が隠されているという言い伝えがあります。僕の家系は多田院御家人の末裔です。山で柴を集めて、風呂やご飯を炊く生活をしていました。

 僕の亡父は教育者で、叙勲も受けましたが「身体第一」というのが口癖でした。

 小学校の時成績がトップクラスだったので、担任の先生に勧められて大阪府池田市にある大阪教育大学附属池田中学校を受験して入学しました。ここは文部省直轄で、先進的で実験的な教育をするところでした。ただ生徒を枠にはめることに熱心で、僕にとっては窮屈な学校でした。それに、田舎者ということでずいぶんいじめられました。僕の夢は隣の敷地にある附属高校に進むことでした。中学生の上位半分しか進学できません。それで、成績が悪かった僕は猛勉強しまして、200人中40位という成績で高校に進学しました。

 高校ではバンドを組んだり、映画を作ったり、仲間もできて自由に青春時代を謳歌しました。でも、高校2年の時に医者になることを決意しました。僕は毎日バスの中で小説を読んでいたのですが、武者小路実篤の「人生論」を読んだのがきっかけです。トルストイの「幼年時代」「少年時代」「青年時代」やアンドレジイドなども精神的に影響を受けました。それで2年の担任の物理の先生に相談したのです。「僕のような成績でも国立医学部を目指せるでしょうか?」と。すると先生は、「もちろん!」と言ってくれました。でも僕の成績は下から数えたほうが早かった。

 それで、その日から「1日に12時間勉強する」というルールを決めました。僕は朝型ですから、4時に起きて勉強を開始します。夏休みは朝食前にランニングもしました。予備校の夏期講習には泊まり込みで参加して、いつも一番前の席に座り、「1回の授業で絶対に1回質問する。」というルールを決めて実行しました。猛勉強の成果は、高校を3位の成績で卒業できたことです。でも、十分な受験対策ができず、大阪大学医学部の受験を失敗しました。

 進んだ先はYMCA豊中校でした。英語の全国模試で10位をとりました。1年間、まったく遊ばず、勉強とギターを弾くこと、走ること、だけで生活しました。結局、神戸大学医学部に進学しました。試験はとっても楽でした。予備校時代に夢をオートバイにしてたので、大学時代はオートバイを買ってツーリングクラブを作ってました。その後はバンド活動を再開して、大学4年生から6年生までやっておりました。だから実は医師国家試験の勉強は3ヶ月の超短期集中方式でした。国家試験が終わると一ヶ月休みがあるのですが、その間、僕はアメリカに渡ってバックパッカーをやってました。西海岸から東海岸にでて、南下して西に向かう。自由なアメリカの空気を1ヶ月間味わいました。英語で夢を見るところまでいけたのですがねえ。。。その後のことは普通に履歴として書きます。

 昭和59年 神戸大学医学部医学科卒、第三内科入局。神戸市立中央市民病院にて研修。消化器内科専攻医を経て、神戸労災病院内科医長。平成4年4月7日、消化器科・循環器科・内科 福井クリニックを細田町6丁目に開院。阪神淡路大震災を経て平成14年12月1日神楽町6丁目に移転。震災時は避難所にて医療にあたり、震災5日目に診療を再開。被災者医療費負担をゼロにする活動をした。日本禁煙学会認定専門医。内科学会、消化器病学会、循環器学会、肝臓病学会、消化器内視鏡学会、超音波医学会、医療情報学会、J-SUMMITSなど所属学会多数。

 趣味はアウトドア、水泳、山歩き、オーディオ、ギター演奏など。

 眼科専門医
 福井きよか

 うちの母方の姓は黒田で、家紋は黒田藤です。黒田官兵衛と同じです。たぶん分家なのだと思いますが、歴史的なつながりに思いを馳せています。

 昭和59年兵庫医科大学卒、神戸市立中央市民病院にて内科研修後、神戸大学眼科入局。県立こども病院眼科、済生会兵庫県病院眼科医長を経て震災を機に当院にて診療を開始、平成12年9月より眼科に就任。日本眼科学会認定専門医。日本コンタクトレンズ学会、小児眼科学会などに所属。

 趣味は読書、映画鑑賞、アウトドア、水泳、山歩き、刺繍など。